三木清 その3

 哲学に入る門は到る処にある。諸君は、諸君が現実におかれている状況に従って、めいめいその門を見出すことができるであろう。ここに示されたのは哲学に入る多くの門の一つに過ぎぬ。しかし諸君がいかなる門から入るにしても、もし諸君が哲学について未知であるなら、諸君には案内が必要であろう。この書はその一つの案内であろうとするものである。
 哲学入門は哲学概論ではない。従ってそれは世に行われる概論書の如く哲学史上に現われた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、或いはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少くとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。もとより西田哲学の解説を直接の目的とするのでないこの書において、私が自由に語った言葉は、すべて私自身のものとして私の責任におけるものである。
 すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚び起すものでなければならない。本書を通じて私が特に明かにしようとしたのは真理の行為的意味である。哲学は究極のものに関心するといっても、つねにただ究極のものが問題であるのではない。我々が日々に接触する現実を正しく見ることを教え得ないならば、いかに深遠に見える哲学もすべて空語に等しい。この書が現実についての諸君の考え方に何等かの示唆を与えることができるならば、幸である。
 本書の出版にあたって岩波書店小林勇、小林龍介両君並びに三秀舎島誠君に多大の世話になったことを記して、感謝の意を表する。

 時代は行動を必要とする、あらゆるものが政治的であることを要求している。このときしかし、哲学するということは、およそ人間の生存理由もしくは意義をなし得るであろうか。人間の「レエゾン・デエトル」として、哲学はいかなるものであるべきであろうか。これは現代において、すべての哲学者にとって、最も切実な問題でなければならぬ。哲学が学問としていかなるものであるべきかということも、かようなレエゾン・デエトルとしての哲学の問題に従属し、それとの関連において初めて具体的に答えられ得るはずだ。
 しかるにわが国の哲学は今に至るまでかくのごとき問題をあからさまに問題にしたことがない。そしてそれこそ「哲学的精神」の根本的な窮乏を語るものである。なるほど、日本の哲学は、知識としては十年前とは比較にならぬくらい発達した。けれど今日、哲学に従事する者自身ですら誰も、哲学が隆盛だとは信じていないのである。悪いことには、なまじっか哲学的知識が殖えたために、この時代において哲学することそのことが危機にあるのでないかどうか、を真面目に考える者がほとんどいない。
 一方ではすべてがルーティヌに従ってなされている。哲学は教授用のものとなり、あるいは単に教授になるためのものとなっている。哲学は今日人間の可能なる生存理由としていかなるものであるかについて、ひとは根源的に問おうとはしない。他方講壇哲学を見捨てた者の多くは、いわゆる知識社会学、イデオロギー論、等々、に赴いた。しかしながらこの者も、そのイデオロギー論、等々が果たして本来の哲学であり得るか否かについて、あまりに単純に考え、もしくは少しも考えてみない。

 私がハイデルベルクからマールブルクへ移ったのとちょうど同じ頃にハイデッゲル氏はフライブルクからマールブルクへ移って来られた。私は氏の講義を聴くためにマールブルクへ行ったのである。
 マールブルクに着いてから間もなく私は誰の紹介状も持たずにハイデッゲル氏を訪問した。学校もまだ始まらず、来任早々のことでもあって、ハイデッゲル氏は自分一人或る家に間借りをしておられたが、そこへ私は訪ねて行ったのである。何を勉強するつもりかときかれたので、私は、アリストテレスを勉強したいと思うが、自分の興味は日本にいた時分から歴史哲学にあるのでその方面の研究も続けてゆきたいと述べ、それにはどんなものを読むのが好いかと問うてみた。そこでハイデッゲル教授は、君はアリストテレスを勉強したいと云っているが、アリストテレスを勉強することがつまり歴史哲学を勉強することになるのだ、と答えられた。そのとき私には氏の言葉の意味がよくわからなかったのであるが、後に氏の講義を聴くようになって初めてその意味を理解することができた。即ち氏に依れば、歴史哲学は解釈学にほかならないので、解釈学がどのようなものであるかは自分で古典の解釈に従事することを通じておのずから習得することができるのである。大学での氏の講義もテキストの解釈を中心としたもので、アリストテレスとか、アウグスティヌスとか、トマスとか、デカルトとかの厚い全集本の一冊を教室へ持って来て、それを開いてその一節を極めて創意的に解釈しながら講義を進められた。私は本の読み方をハイデッゲル教授から学んだように思う。